先日から、幾つかの違うことで知財やら、オープンソースやらパブリックドメインコンテンツが気になっている。某資料館のトークセッションも契機ではあったし、某資料館のドンとのお話でもそうだったし、egamiday氏の話題提供、別な流れのこちらのまとめ
http://togetter.com/li/516035、そこで引かれてたこんな記事などがぐるぐるして、歯医者で奥歯をガリガリやられながら考えていたわけです。
  私はこれまでも、このブログやTwitterで、研究のネタや進まない様子もつぶやいたり、学会でも面白い研究などを紹介して、自分の研究や興味を、かなり意図的にオープンにしてきたつもりだ。
 興味の広い一方で個々にそれほど追求できる余裕も無いことから、誰かがそれを追求してものにするのであればそれはありがたいと思うし、元ネタとしてリスペクトしてくれればそれは嬉しいことだし、というくらいのもの。

 幸いにも、というべきか、それほど業績にバタバタしないで済むポジションでもあり、鷹揚に構えていられるというのもある。私の興味がかなり強いところは、アイディアだけ聞いたってそう簡単にフォローできるもんでもなかろう、というのもある。思いつきと材料でやれる研究と、着想の背景になった興味の方向等含め、その人でなきゃ形にならない研究手のもあるからね、その辺ですこしのんきなところもある。
 それでも、他の人と進めていたことを、周辺にいた別の人間が黙って投稿してた、なんて経験もないではない。賢く競争社会に生きているのはどちらか、といえばそれまでだが、そういう他者へのリスペクトのないスタイルは業績は得ても協力者という人財を失っていく。哀れなことだ。

  博物館での研究スタイルが教育普及という部分と深く結びついていることから、オープンな研究スタイルは欠かせない。教育普及する学芸員と研究する学芸員が顔を使い分けていては、市民に自然に興味を持たせ、市民科学者として育成することは難しい。学生を指導したことがなくても、卒業研究や修士論文などで先輩や教官が、これこれこういうところが面白いよね、などと一言つぶやいたのを耳にしたことから、突破口が開けたなどといいう経験を持つ人は少なくないんじゃなかろうか。面白がる視点、大事なものは何かを見る視点を示すということは教育上も有効な手段なはずだ。学芸員にとっての学生に相当する教育対象は市民である。教官にとっての院生がパートナーでもあるのと同様、市民は学芸員のパートナーでもあり得る。私らは、だから研究上の興味やそのプロセスをつぶやくのだ。

 インパクトファクターを少しでも稼ぎ、人より早く出し抜いてでも成果を出し、という分野に生きている方にとってはそんなのアリエナイ、とおっしゃるかもしれない。が、私がやっているような菌類学や生態学は幸か不幸かそうではない(私のやっているのがそうでないだけで、菌類学や生態学にもホットトピックは当然あるよ)。できるから公開してる、といえばそうなのかもしれないけど、意図的に研究者の目線、手法、過程を公開していかないと、社会の中に浸透していかない。自然科学は誰か遠くの人がやる仕事、私にはブラックボックスな知識、になってしまう。意図的にやることはどこか必要なことなのだ。
 だから博物館ではしばしば市民参加調査、というオープンソースなプログラム開発にも似た、共同調査を行う。これも仲間内だけではその意義は半減してしまう。オープンにして、外部知を入れて、楽しく進展させて行くことが欠かせない。博物館を訪れる「人財」を活かした研究、というのがオープンソース的な研究活動と接点が強いのだろう。
 研究のプロセスをコミュニティ内外にオープンにするだけではない。成果の持ち方にも博物館の研究はオープンソース的なところがある。成果は論文だけではない、結果は中途段階のエピソードまでを含めしばしば展示として詳細に報告される。また中間生成物とでも言うべき標本は博物館に残され、その後の研究にも活用される。活用するのは本人とそのグループだけではなく、原則後に続くだれしもが研究に使える公共財となるわけである。
 研究者が研究資料を個人で囲い込んでしまうことはしばしばある。生物の分類学者は扱う標本を、生態学者は調査地を、歴史研究者は史料や文献をしばしば自分の縄張りのように仕舞いこんでしまう。成果の独占、競争社会、ということでは正しい戦略なのかもしれないが、それは社会全体にとって不幸である。ある程度研究ががすんだ資料は公開することで、後進がさらなる研究を深めることができ、他の分野からの光もあてられ多角的に検証され活用され得る。わたしは、これこそがバウチャーの重要性でもあり、その保管機関たるユニバーシティミュージアムの機能だろう。しかし、その現状は非常に脆弱であり、教官自身にその意思がなくても研究資料は囲い込まれている。
 囲い込んだ結果、今日大学教授などが長年かけて集めた資料などが下手をすれば後任の教官ですら活用できない状況にある。大学で公的に保存されず、自宅に持ち帰られた後、場合によっては散逸、虫害などで破損してしまう。大学が資料を共有財産として保全する仕組みが弱いのだ。
 大学でなければ社会の中で保全できるのか。博物館が機能しアクティブであれば地域の中で保全もされる場合もあるだろう。自然史分野はまだかろうじてそういう空気がある。けれど多くの産業史分野はそうは行かない。工学分野全般にそうした資料保全の取り組みは弱いだろう。工学の中でも基礎的なイノベーションを追求した分野の中には資料を保全し後日吟味することが必要な分野もあるのではなかろうか。文系分野でも博物館や文書館に入っていない文献(翻刻されたものもそうでないものも)などの基礎資料が囲い込まれ、利用できないものは数多い。私蔵が死蔵に転じることはたやすい。

 研究者が研究成果をあげることは大切だし、それが評価軸になることも理解できる。けれど、(科研費だったり、税金由来の大学研究費だったり)多くの社会の支援を受けてなされた研究の成果は社会に還元されるべきである。
それは
1.研究論文など成果の無償公開化への努力
2.研究成果物や資料、中間生成物の公的還元
が必要なのであり、
これらを通して、後進や多分や研究者が市民科学者がその成果の実りをより良く活用することができる体制づくりだろう。これらを実現していくためには現在なされているような学術ジャーナルへの科研費の支援の再検討も必要だが、博物館や資料館などのアーカイブ施設へどのように研究資金を配分していくのか、という大きな問題に行き着く。科研費の○割を成果の公開促進に、という中に博物館への支援をどうしていくのか。

しかし、同時に研究者コミュニティのカルチャー形成というか行動規範的な問題として
3.これら公開された成果や資料を利用する人間が、以下にしてそれを集めた人間に対してリスペクトを示すのか、そのやり方を確立していく必要もあるだろう。

こうしたことを考えていく上で、クリエイティブ・コモンズに代表されるようなパブリックドメインコンテンツのあり方、オープンソースの開発過程のルールやカルチャーを考えていくことは、非常に実りがあるような気がするのだ。
そして、博物館や文書館(あるいは図書館)など文化資源とか、知的生産インフラとか言われるような組織のあり方は本質的にこれらの資源の公有化と会報を目指したものであり、資料など資源の囲い込みをせざるをえないような今の学術のあり方とは逆の方向にあるのだ、と意識することを自覚しないといけない。
もっと言えば、博物館などはそういう共有された知、資源、人財の保全機関そのものであり、そうした共有知にリスペクトを示せない「sneaker的」研究スタイルに対しては毅然として対抗していく必要があるのだろう。

さて、このエントリー自身が将来もう少し煮詰め、補強し何らかの博物館的な成果にしていく元ネタの開陳では有ります。多分自分自身書いてみて後で眺めることでたくさんの論理の飛躍にも気づくことでしょう。ツイートやフェイスブックなどでの建設的なコメントで育っていくといいな、と思ってみたり。
まずタイトルをもう少し工夫しないとダメかなぁ。